NPO法人シンフォニー主催のボランティアバス「東北―関西 架け橋」に乗って、6月17日に仙台市の被災地障がい者センターみやぎへ行ってきました。
ちょうど大阪から「夢かぜ基金」の八幡さん(青い芝以来の知人)が来ておられ、今回の東北支援への「夢かぜ基金」による多大の寄与を支持・応援していることを伝えました。
前回の架け橋バスでもご一緒した尼崎の高岡さんともども12月に尼崎にも来ていただいたセンター代表の及川さんを待ちました。土曜日でしたがわざわざ来ていただいて、しばし旧交をあたためました。
困っている障害者へ障がい者センターの活動の様子が伝わること自身が簡単でなく、また行政もすぐに理解あるというわけではないのでご苦労されていることをたくさん聞きました。
11時に案内をお願いしていた販売担当の田中さんが来てくれました。私たちが東北の障害者作業所の物品購入をしている「B-NET」の担当者です。これまで6回の購入に一つ一つ丁寧に応対していただきました。
今回の訪問の目的のひとつは、尼崎で購入・販売している物品を作っている作業所に訪問・取材することでした。
仙台市内の「多夢多夢舎中山公房」なら土曜日も開所しているということで、青葉区内にある中山公房に田中さんの車で向かいました。
途中緑深い仙台市内を満喫しました。
定禅通のケヤキ並木は目を見張るばかりでした。
少し郊外の中山公房は落ち着いた雰囲気でした。待っていただいていたスタッフにたくさん話をしていただきました。
私も直接お聞きしたかったことを質問しました。
「注文する量は少なすぎませんか、多すぎませんか?」「いや大丈夫です。」
「総会などでたくさんの注文がきたときためらうのですがどうでしょうか」「あらかじめ日にちがわかっていれば、あじ味噌なんかだと500個でも1000個でも作りますよ。味を決める森ゆうじさんが責任を持って張り切って段取りします。」
「つい最近、あじ味噌おいしかった、3個ほどほしいんだけど、と電話がありました。」「うれしいですね、森さんがよろこびます。」
6月29日、「多夢多夢舎中山公房」からメールと画像が届きました。
「先日は遠いところご来舎いただき、誠にありがとうございました。お話のあった『あじ味噌』作成中の画像をお送りいたします。早急に画像を送るはずでしたが、あじ味噌の作成が本日になってしまい、送るのが遅くなったことお詫び申し上げます。締め切った場所での調理と、暑さが厳しくなってきた季節のため作成担当舎員の森さんは大量の汗をかきながら味噌作りに勤しんでいますが、『僕の作った味噌が尼崎でも販売されている』という注文が来ることに喜びを感じながら作成しています。これからもよりよい商品を提供できるようにがんばっていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。多夢多夢舎中山工房」
そのあとお隣の「食香房たむたむ亭」でお昼ご飯を頂きました。
「ワンコインで食べられる、体にもやさしいおふくろの味」のとおり、田舎の母が作ってくれたようなやさしい食事でした。近所からでしょうか、二人ほどお年寄りが常連のようでゆっくり食べておられました。
皆さんにお礼とお別れの挨拶をしたあと、田中さんに海岸部へ寄っていただきました。
昨年11月「架け橋バス」で仙台を訪問して物品販売するようになったとき、半日一人で仙台市の海岸部中野地区、蒲生地区を歩きました。
あれから半年たっているのですが、全く同じでした。建物の土台だけが残っています。人や工場が戻ってこれる状態ではないのでしょう。
前回訪れた時、海岸に近い跡地でおまいりしたおじぞうさんにお会いしました。
泥に少し汚れたぬいぐるみのおもちゃが供えてあります。きっとちっちゃなお孫さんかこどもさんの遺品なのだろうと胸が衝かれます。
一軒一軒の家族の皆さんの思いが広がっている跡地で、これからどのような復興があるのでしょうか。
仙台市の北の七ケ浜で足湯ボランティアをしているタッチケアの皆さんに合流する高岡さんを送っていただく道中、海岸沿いを走っていただきました。
運転いただいている田中さんからいろいろなお話をお聞きしました。
海岸が見えないくらいびっしりとあった松林防風林が全くなくなっているようす、海岸べりはすべて津波に襲われた跡地でした。
復興に一体何年かかるのか、気の遠くなるように思いました。
次の日6/18、被災地障がい者センターみやぎスタッフの鴻野さんに、昨年10月より開所した「被災地障がい者センターみやぎ石巻支部」へ案内していただきました。
10時仙台でご挨拶して北の石巻へ向かいました。
途中、水没した航空自衛隊松島基地のある東松島市矢本の海岸部へ立ち寄りました。
様子は仙台の中野地区と同じで、すさまじい津波の水量と圧力ですべて押し流され、今も手つかずの状況でした。
石巻では津波が駆けのぼった北上川の川べりを走ってもらいました。その恐怖はどれほどだったでしょう。もし私たちなら逃げられなかっただろうと思いました。
被災地障がい者センター石巻支部では、スタッフの箕田さんが出勤していただいていて、いろいろなご苦労をお聞きしました。
特に関西とは違って、障がい者が自分で外へ出て活動するということがこれまでほとんどなかったため、今でもきっと家族と一緒に引っ込んで苦しい毎日を送っている障がい者がいるのに、そこへ届かないもどかしさを話しておられました。
途中、障がい者当事者として中心のおひとりである阿部さんが来てくれました。
きのうまで青森へ行っておられたとのことでお疲れでありましたのにありがたいことでした。
やはり一緒に動く障がい者仲間が増えていかないこと、行政が理解不足のこと、一番近いJR駅にエレベータがないので、隣の駅で降りてきたことなど話していただきました。
関西には「ゆめ風」を通じて何度かこられているようなので、次回来られた時は尼崎へ寄ってくださいとお誘いしました。
石巻支部へ行く途中、ずっと海岸部を走っていただきました。
海岸部はどこも同じで、震災から1年半たちますが、広い跡地です。押し流されなかった頑丈な家屋だけが残っていて、あとはがれき処理として広い跡地になっています。
津波に襲われた福島県・宮城県・岩手県のすべての海岸部がこのようです。
海辺で日々の生活を送っていた方々が、ことごとくすさまじい水量と圧力にさらされたのです。
どのように「まち」を復興させていくか、私たちにどのような支援が出来るでしょうか。
帰り尼崎からの「架け橋」バスの一行と落ち合う多賀城市まで、鴻野さんとたくさんのお話をしました。
みなさん、気負わず真摯な向き合いかたをされていると強く残りました。
2回だけの訪問ですが、「架け橋バス」が着実に架け橋になってくれています。
実はこの東北作業所の物品販売事業は、NPO法人尼崎障害者センターが非営利の事業として事業費を準備して1年を目安として始めたものです。
しかし今回東北被災地を訪問して、改めて1年では済まないとひしひしと感じました。
海岸部にあった「まどか荒浜」はまだ仮住まいです。
いちごジャムを作っていた「工房地球村」はイチゴ農家が全滅して、いまはイチゴのデザインの手ぬぐいを製作しています。
息永く販売事業を続けるには、もう一度みんなに相談をかけ尼崎での販売体制を整える必要があります。帰ってからの宿題となりました。
みなさまお力をお貸しください。
2012.7.1